外国人記者クラブで松岡がアピール

去る2月14日の雨がしょぼ降るバレンタインデーに、松岡被告と私は有楽町駅前で待ち合わせて電気会館ビルの中にある「外国人特派員協会」(通称外人記者クラブ=the Foreign Correspondents' Club of Japan 、以下FCCJと記す)
へ向かった。このイベントは過日の大阪で支援会の代表世話人の永岡さんが、ベンジャミン・フルフォード氏と面談して実現したものである。永岡さんとフルフォード氏のお骨折りに感謝したい。

かねてより、大手国内メディアの「鹿砦社・松岡裁判」報道の在り方について、私たちは機会あるごとに未曾有の言論危機を訴えてきたのだったが、相も変わらず一向にその鈍感な姿勢が変わるような兆しもない。大阪高裁判決を目前に控えて、いささか業を煮やしたところで、ちょうど舞い込んできた話だったので、外国メディアでは一体どのようなリアクションが得られるのかが未知の期待値としてあった。

事件の経過の報告会見と質疑応答の中で、なんと6名ものジャーナリストからの質問があり、一時間の予定が大幅にオーバーして30分以上も延長となる熱のこもった記者会見となった。
協会所属のジャーナリストたちが会見の際に出された質疑内容のみを以下に箇条書きしておく。

Q1. なぜアルゼのことばかりを連続して追及したのか?
Q2. 逮捕・勾留以外にも日常的に身の危険を感じたようなことはなかったのか?
Q3. 以前に殺された石井弘毅代議士も生前に精力的にパチンコ業界の警察との癒着を追っていたが、やはり陰ではヤクザが暗躍しているのか?
Q4. どうして日本のマスコミは、このような明らかな言論弾圧をつぶさに報道しないのか?
Q5. どうして言論の自由があるのに、本を出版しただけで逮捕・起訴されるのか? 弁護士さんは何と言って松岡さんを弁護しているか?
Q6. 私=記者自身、オリコンから5000万円の民事訴訟を起こされている。いわば弾圧の先輩として松岡さんに聞きたい。どうやったら表現者は、そうした攻撃から身を守れるのか? スタンガンとか催涙スプレーでは無理なのか? (思わず皆が苦笑・・・)

概ね、以上のような質問が相次ぎ、会場は文字通り熱気に包まれた。
以下は上記に対応する松岡被告からの丁寧な返答である。

A1. 最初は1巻のみでと思ったが自分としては出した本自体が検証不足もあるようで不満だった。それで精細な取材を重ねて第二弾を出そうとしたときにアルゼから「出版差し止め」に遭った。内容の真実性に自信があっただけに、「これはさらに何かある」と思い、その後も連続してアルゼ問題を追うことになった。半分は意地だと思われるかもしれないが、そのときは真剣に真理を追求する思いが先行した。
A2. 権力による逮捕・勾留以上の弾圧・恫喝はなかったと思うが、もともと私はそれらの圧力に若い頃から鈍感だったので、ひょっとすると他の勢力にも狙われていたのかもしれませんね(笑)
A3. アルゼは既に表の社業として堂々とラスベガスとマカオにカジノを運営しています。現在公判中の私の口からはそれ以上のことは言えません。(会場にどよめき・・・質問者のフルフォード氏を含む複数の外人記者から「それって、ひょっとしてあのMとも関係しているのか?」というような早口の英語が飛び交う)
A4. そもそも日本の裁判報道そのものが不十分な構造にあり、その全てが検察・警察・裁判所から貰うブリーフィングのみで記事を済まそうとしている。それらの公的機関からのリーク体制は特殊日本的な記者クラブの在り方と表裏一体である。端的な話をすると、私本人の逮捕を当日朝に配達された朝日新聞で、それも「アンタ、えらいこっちゃで」という母の狼狽で知るということになった。(再びどよめき・・・) 
A5. 私も弁護人も支援会も、この事件については明白に「憲法第21条=表現の自由・言論の自由」という論議の枠内にあるものとして、原則的に無罪だと考えている。
A6. ご質問者の(ウガヤ)さんの5000万円という請求には何と言ってよいのか、なんせ私はアルゼから3億円の賠償請求でしたから(笑)・・・ただ烏賀陽さんも元アサヒのOBだと聞きますので、今後とも国内での有形無形の共闘関係を築きたいと思っております。一緒に頑張りましょう。

以上のやりとりの中で、外国人の方にはきっと判りにくい法的な側面などあるものと思い、私の方からは蛇足だが以下の端的な補足をしておいた。

1. そもそも日本の刑法は古くは明治時代のものであり、刑法230条の「名誉毀損罪」は自由民権運動以来の権力側が鬱陶しいと思う政敵(Political Enemies)を言論封じし、排除するという立法主旨のもとに設けられた。
2. 現在は、利害が相反する民間企業の間でも、高額な賠償金を裁判で吹っ掛けることによって、相手の経済的打撃=弱体化を目論むように機能し始めた。それによって高額訴訟が頻発し、利益率を重視する大手の言論機関=マスメディアのほとんどは腰が引けて、裏を取らずに型どおりの取材でお茶を濁し、検察・警察・裁判所からのリーク情報のみで記事を埋めることとなった。
3. 結果としてこんな古臭い法律が戦後も生き延びたことで、金や権力を握る側に好都合な現代社会になりつつある。「言論の自由」が民主社会のベーシック・ルールであるにもかかわらず、古臭い法律のお陰で、不条理な既存の権力秩序を温存できる極めて現代的なスタイルの政財官一体となった「言論統制」が可能になったのは、まさしくこの国の歴史的アイロニーである。決して一般の日本人のように、日本のマスコミ・メディアが国民性としての「シャイ」な情況にあるのではない・・・これはまさしく「権力の意図」するところなのだから。

こういう具合で、外国人特派員協会での会見は、一定の緊張の中にもユーモアとウィットを感じさせるフォーリン・ジャーナリストたちのお陰で、なごやかに時を過ごした。
会見終了後も名刺交換を求める各国のジャーナリストたちと交流し、その一部がビルの一階にあるパブに合流した。この会見模様が、このまま外国に配信されたらG7,G8どころか、「京都議定書」までが吹き飛んでしまいそうな我が国のお寒い「言論の自由」情況は一体どのように報道されるのだろうか。

フォーブス日本支局長を辞した怪人ベンジャミン・フルフォードは、評判どおりのギョロ目が可愛いオジサン風だったのが微笑ましい。烏賀陽氏は京都出身=京大つながりで若い頃は西部講堂でもロック・バンドで慣らしたらしいが、彼の尊敬する唯一無二、神とも崇めるスターは何と我が友パンタであった(笑)
打ち上げのパブで飲みながらパンタに直電した携帯を「ほれ、アンタの崇拝する神様が・・・」と代わってあげたら、「えー!! ホンマにあのパンタさんですかいなぁー!!」と、急に関西弁になって何度も何度も、自分の前方の当て所ない有楽町駅に向かって、ペコペコお辞儀を繰り返していたのが面白かった(笑)、マッド・アマノさんも加わって、その後も久しぶりの上京をした私の知り合いが増えて、とりあえず現下の裁判の情宣だけはできたのかと思う。願わくはひとつだけ・・・「言論無罪・出版有理」!!

Fccj214


Fccj4

| | Comments (0)

ワーキング・プアーとオリバー・ツイスト

映画の話にこと寄せて、今日は「貧困」について思うこと(1)・・・

昨夜の地上波NHKでの『ワーキングプアー2-努力すれば抜け出せますか』は、それなりに前回(2006.7.23放送)に引き続いて反響があったのだろうか?、ウチの家族が観ていたくらいだから結構な視聴率を稼いだのかもしれない。 
http://www.nhk.or.jp/special/onair/061210.html

聞くところによると、あのアベも首相就任前にこれを観てバタバタと急遽、再チャレンジなどという「あざとい手法」を考えついたというではないか。「人一倍働いているにもかかわらずどんどん貧しくなる」という社会は、極端に言えばもうプリミティブな「神の手」と人々の善意によってのみ成り立つレッセフェール=自由主義的資本主義ですらないということだ。

かつて、私が専攻していたフランクフルト学派の流れをくむ主としてドイツの社会学者たちは「後期資本主義=シュペート・カピタリスムス」という用語と、「高揚期の資本主義=ホッホ・カピタリスムス」という表現で、1960年後期以降の世界を語ろうとした。それが、旧マルクス主義の流れをくむ潮流としての最後の矜持ある時代予見だったと一笑に付されるのが1980年代だった。80年代は、貧困に心を痛め、貧困による社会矛盾に目覚め、貧困による人間の全世界的スポイル状態を打開しようとした良心的潮流の凋落が雪崩を打って溶解し右傾化した時代だったのかもしれない。70年代初頭でエゴを捨てようと提唱したひとたちが、90年代以降も踏みとどまろうとしたら、周囲が殆ど拝金主義的なエゴを賞揚していたと言えようか。エゴでひとなんか救える訳がない。

さて、新『オリバー・ツイスト』である。
新というからには旧作もあり、それは私もまだ観たことがない。
今回のDVDはプレミアム版で、詳細なメイキングの冊子が付録として付いている。
ディケンズの描いた「救貧院」出身の孤児=オリバーの若く悲惨な人生模様は、実はマルクスが亡命先・英国で『資本論』を書こうとした頃に先立つ時代の模様をリアリスティックに採り上げている。

監督がロマン・ポランスキーであることに特別の意味は無い。彼に「貧困」への思い入れはないのだが、差別への反抗心は前作『戦場のピアニスト』に続いて意気軒昂である。彼自身が身内を強制収容所で亡くしたという過去が大きいと判る。ロンドンまでの歩いて70マイルという距離に比例する隔離的な貧民孤児コロニーとナチ政権下の収容所は、ポランスキーにとってはほぼ時代を隔てた同義語なのだったとも思える。この映画では貧困が全ての原罪という捉え方はされていない。登場するスリの親方=フェイギン、スリの子供のリーダー格=ドジャー、仲間の売春婦ナンシーとかいった猥雑な人間関係の中でも、自分より困っているひとをとりあえず助けるという思想があって、観る者の側の救いを演出しているのだ。生まれながら究極にツイていなかった孤児のオリバーは、子供のなかった篤志家ブラウン・ローに拾われて幸せに生活を送ろうとするのだが、ロンドンに来たとき親切にしてくれた今は囚われて死刑囚となってしまった拘禁症状のフェイギンに面会に行く。このくだりが一番の共感を呼ぶだろう。

http://www.olivertwist.jp/

この映画に寄せて、現代のワーキング・プアーの事情を語るのは、ひょっとすると無理があるかもしれないのだが、強引な引き寄せをすれば、私も6歳で両親を相次いで亡くした天涯孤独の孤児だったということだ。映画のオリバーは、あのときの私と同じだ。子供ながらに自身の生涯の生き方を何時の日だったか、否応なしに選択を迫られたという歴史の中で、私自身は究極の自分の人生選択をして現在がある。文字通りの私の篤志家達は、決して金持ちではなかったけれど日本にも複数居たということが私の現在に繋がっている。

ワーキング・プアーについての論考は明日にでも続編を・・・Oliver

| | Comments (0)

『伝説』となりゆく事ども

時の流れが速い・・・自分が思ったような流れではなく、外部からの思惑のみで自分が左右されるのが昔から嫌いだった。

最近はネットで本やCD,DVDを注文することが多くはなったとはいえ、まだまだ書店に自ら出向くのは、書店の空気が好きなのもあるけれど、実のところ棚に並んでいる書籍の佇まいや風貌を気にしているからだ。実際、本の装丁デザインなどは檜森の本のときに勇躍、自分もやってみたけれども、限られたスペースに何を詰め込むのかとか、キャッチをどうするのかというトータルなコンセプトを要求されて、なかなか面白くもあり、また大変でもある。その意味で本の中身と、本のビジュアルが一致しているのは少ない。

そんな中で数少ないインパクトがあったのは『死霊』(埴谷雄高)の黒い装丁だった。手に取るのもおどろおどろしい真っ黒な背表紙に白く「死霊」とあったのが、70年頃の私たちの心情にマッチしていた。ついこの間まで闊達な学生だったのに、「こんなもの読むようになったんだなぁ」と、ひとしれず嘆息したものだ。
最近のお気に入りは、『昭和ジャズ喫茶伝説』(平岡正明著・平凡社2005年)の装丁であった。
「しあんくれーる」や、「ブルーノート」という私自身が身近だったジャズ喫茶などのマッチ箱の画像を散りばめて、惜しげもなく折り返しの部分に押し込んだ・・・その潔さに感動していた。


さて、昨日の日曜日に書店に行って巡り会ったのが『団塊パンチ3』(飛鳥新社=1500円)という雑誌である。 「特集1-1968年に何が起こったのか?」というのと、「特集2-ちあきなおみ伝説」というタイトルの濃さの割には、ちょっと頼りない表紙デザインが逆に気になった(笑)
「1968年」には、私はまだ大学生ではなかった・・・だからギリギリのところで私は本当の団塊の世代ではない。元祖・堺屋太一によれば、1947〜1948〜1949年生まれが正当なる団塊世代であり、私たちはさしづめ「団塊世代のしっぽ」のような世代なのかもしれない。ちなみに伴侶は二歳年上なので結果として立派な団塊世代である(笑)

どうせロクな記事はないだろうと思って読み進んでいたら、これがけっこう手応えがあったのに驚いた。1968年のことではない、「ちあきなおみ」のことなのだ。
1947年、東京・板橋に生まれた「ちあきなおみ」こと瀬川三恵子は、父が不在の家計を助けるために、なんと4歳から横浜・横須賀・九州までを駆け巡る「白鳩みえ」という芸名でタップダンサーとしてデビューしたという。三恵子は踊りだけでなく「ルイジアナ・ママ」のようなJAZZポップス系の歌もときどき酔っぱらった米兵相手に披露していたらしい。その後彼女は、芸名を目まぐるしく変えて「白鳩みえ→メリー児玉→五城ミエ→南条美恵子」と変遷し、1969年6月10日になってようやく「雨に濡れた慕情」(作詞・吉田旺、作曲・鈴木淳)で、初めて「ちあきなおみ」としてレコード・デビューした。
その芸歴の長さから言っても歌が上手いのはともかく、何を唄わせても彼女は即興で完璧な感情移入ができたという。
ここで、リアルタイムに彼女のデビュー当時を知るはずの私だが、そのずっと後になってからの「喝采」しか覚えていないのは何故だろう。コアな時代=70年初頭の私の意識が、ちあきなおみとの接点を遠ざけたのだろうか。
話を端折ってしまうのは気が引けるのだが、その後彼女は、女として「幸せになりたい」と言って、「エースの錠」こと宍戸錠に相談して、宍戸の実弟である日活アクション俳優の郷エイジと知り合い、所属レコード会社のコロムビアとの軋轢を乗り越えて結婚する。
幸せの日は永遠に続かず、夫=郷は、1992年9月に肺ガンで亡くなる、郷=55歳、ちあき44歳だった。
『団塊パンチ3』には、郷の実兄である宍戸のべらんめぇ調のインタビューもあり、何よりも愛していた弟夫婦への気遣いが優しい・・・

>「宍戸---洞ヶ谷斎場か。その時も精神科の女医に言ってやったよ。『郷の棺に一緒に入ろうとするから、見てろ』。そしたら、ちあきは泣きながら棺の中に入りたいと言った。まわりの人間が止めたけど。でも、それわかるもん、俺・・・。」・・・本当にこのとき、ちあきは「一緒に私も焼いて」と叫び続けていたそうだ。この雑誌に寄せられた寄稿文のひとつひとつが、このような切なくも優しい目線に溢れていたのが印象的だ。

これもひとつの愛のかたちであることは間違いがない。
知るよしもないことだったが、ただの歌謡曲や演歌歌手では飽き足らなかった、ちあきはあのビリー・ホリディーの曲を日本語で一人芝居したという。その後、ちあきなおみは一切のステージ、一切のライブ、一切のレコーディングをしていないという。そして彼女は、こうしてひとつの『伝説』となった・・・

私たちも同じような時代に生きて、既に伝説と化すような物語を抱えながら生きている。そういうことは伝説で済ませて良いのか・・・反問の果てには一体何が待ち受けているのだろう。今では連赤もオリオンの星も、簡単に伝説になってしまうのかと思うと、とてもやりきれない思いがする。

Dankaipunch
Jazzkissa

| | Comments (0)

僕らのダンディズム

例によって、更新せずに放っておいたら、あっというまに数ヶ月が立ち去っていって、あのおチャラけた首相も退陣したうえに、今度はもっとふやけた私より年下の茶坊主が内閣総理大臣になっていた。
昔、反抗的だった団塊世代は、現実政治の中でも順番を10年以上飛ばされてしまった。この国の保守政治におけるセーフティー・ネットは、つまるところ団塊飛ばしだったのかと笑いがこみあげてくる。

全然うまくいっていない・・・
私の想念と世の中は依然として噛み合うどころか、ますます乖離していくのだ。
この先、おそらく何年・何十年が経過してでも、この国の事情が好転することはないだろう。
翻って、私たちはこのうえ、一体何に拘泥していけばよいのかと考えると、やっぱり自分の強い意志=ダンディズムしかないのだろうと考えている。
この際だから、かつての「武士は食わねど高楊枝」というのも、ひとつのダンディズムだと認めよう。
でも私たちは領主を戴く封建武士などではないから、「貧乏してでも主に仕える」という思想などない。
そうすると、私たちは、かつてのように主体的な自らの思いをライフスタイルの中で全うしていくのが本筋だと思う。それこそがひとつの譲れないダンディズムであり、またそのように生きてきたという自負があるのだ。

本を読みたいと書いていたのだが、実のところこの間余り読んでいない。
最近は昔の仲間からのお座敷がかかることが多く、集まって呑んで話してオシマイということが多く、東京だ、京都だ、大阪だと移動ばかりで、なかなか思い通りにはなっていない。
そんな中で、久しぶりに読んだのが『悲劇週間』(矢作俊彦著=文藝春秋刊)である。
「恋と詩と革命の超大作ロマン」と銘打った本著の帯には、「戦争はいかが?」というサブタイトルがある。大正から昭和の初めにかけてを主な舞台とするある外交官の息子の物語で、この作者にしては骨太なストーリーというよりも史実を織り交ぜた精緻な作品だと感じる。

矢作俊彦は、文字通りのダンディズムを自らの作品のモチーフにしているのだろう。
序は「明治四十五年、ぼくは二十歳だった。それがいったいどのような年であったか誰にも語らせまい。」で始まり、終章564ページには「いずれにしろ確かなのは、パリにパリなどないことをぼくが知る何年も前のお話。あのころぼくは二十歳だった。」と締めくくる・・・

そうだ、これはあのポール・ニザンの翻案に違いない。
『青春20歳、それが人生の一番美しい季節だなんて誰にでも言わせるもん か』
というあれだ。あのころの若者は第二外国語を仏語専攻ならポール・ニザン、私のように独語専攻ならヴァルター・ヴェンヤミンだったのだ。
内容に立ち入るのはやめよう。ただ、私と同年の作者が書こうとした青春も結論として「うまくいっていない」と言っておこう。

この前、東京から帰る新幹線グリーン車の中で、偶然にもこの本を読みながら、iPodでCharの『気絶するほど悩ましい』を聴いていたら、当の本人と帯同バンドに出くわして驚いた。
なんせ、この歌のサビの後には、印象的なフレーズが繰り返される。「うまくいく恋なんて恋じゃない」と・・・

やっぱり、全然うまくいってない。こんなふうに会うなんて・・・


Yahagi

| | Comments (2)

ゆっくり本を読みたい気持ち

先月から今月にかけてはまさに疾風怒濤の勢いで、いささか疲れ気味であった。

友=松岡の判決公判もあり、結果は予想どおりの有罪(懲役1年2ヶ月・執行猶予4年)ではあったが、支援者の輪も確実に拡がっており、また何よりも特筆すべきは神戸地裁の陳腐な判決よりも私たちの「出版・言論の自由」概念に対する理論的レヴェルが飛躍的にランクアップしたということであった。

何事もいち早く思想性で凌駕してしまえば、たとえロクでもない判決が下されたとしても痛くも痒くもないということか(笑)、所詮裁判官は常識の固まりで市井の公務員=「勤め人」であり、私たちはそれなりに自分の矜持をかけて生き抜いてきた苦労人であり、その意味で正しい「人生の棒の振り方」ばかりを模索してきたという大きな違いがあるのだ。これを称して69-70年代の若者の「大量ドロップアウト」と呼んだ評論家も居たが、そんなことはこちらにしてみれば単に大きなお世話である・・・
まして団塊の世代が日本の資本主義を支えたなどとは歴史の捏造であり、私たちはいつでも異議を唱えて生きてきた。「浅間山荘」以降、完膚無きまでにボロ負けして少し智恵が付いたけれども、そもそも「転向」なんか金輪際したこともないのだから。
そんな気の利いたことをする程ヒマがあったなら、私はもっと好きな本を読んで暮らしていたい。

きちんと読んでいない本は驚くほど多く、いかに自分が怠惰であったかを反省するきわみである。
ちなみに、まだ買ったままで全部を読んでいない本は、以下のとおりである。

(1)『マルチチュード・上・下』(アントニオ・ネグリ=マイケル・ハート著・NHKブックス)
(2)『道浦母都子全歌集』(河出書房新社)
(3)『昭和史1926-1945,1945-1989』(半藤一利著・平凡社)

であるのだけれども、今はなんとなく何が何でも読み切るのだという決意が湧いてこない。
それらの本にもまして、私は長年自分の読書歴の中で、日常は手にとっては いるのだけれども結局全然読み切っていない二つの著作があって、それらの本を読むには私にとって、至福のひとときがきっと必要であろうと勝手に決めていたものがあるのだ。

こういう本を読むのは、私の場合、ビジネスも闘争も家族も仲間も存在しないところでしかないと勝手に考えていた・・・かつて、バリ島にもシドニーにもハワイにもサイパンにもわざわざ持って行ったけれども、プールサイドや砂浜でこぼれるばかりの太陽の下で、それらの本をサングラスをかけてまで読もうとしなかったのは、せめてもの自分なりの決め事であったろう。
シチュエーションとして、そうした南の島とかリゾートでしか読めないような本と決めていた自分が今となっては、とても惨めな精神状況でしかなかったと痛み入る次第である。
その本の名は、『失われたときを求めて=マルセル・プルースト』であり、『ユリシーズ=ジェームス・ジョイス』であった・・・

本を読むのに、誰にも何にも憚ることはないにもかかわらず、私はまだこの二作を読んでいない。
つまり、私はまだ何ものかに拘束されており、自らを真に解放する術を手に入れていないような気がしてならない。

| | Comments (0)

ひとつ繋いで、またひとつ・・・

またもや久々の更新・・・
何かを発信していくことは大変なことと思い知りつつ、何とか「ツナぐ」という楽な思想に流れつつある。きちんと自分の周辺のことを微細に伝えていくことは、もう諦めている。

最近になって、偶然にも自分よりもちょっと上の世代の方たちとの交流が多くなった。私ですらもう充分なオジさん世代に達しているのに、それら年上の人達は、昔で言ったら立派なオジイさんたちである(笑)
なんせ、こんな唄があったくらいだから・・・

♪ 村の渡しの 船頭さんは
今年六十の お爺さん
年はとっても お船をこぐ時は
元気いっぱい櫓がしなる
ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ

若いひとには注釈が要るかも知れない(笑)
その昔、どこの川にも橋が架かっていなかった時代のことを。
私が住んでいた地域の北部にも大きな川があって、小学生や中学生は通学にも使っていたそうな。
幸か不幸か、私は渡し船で通学した経験がない・・・

さて、そんなオジイさん世代の中でも、今でも洗いざらしのジーンズにギンガム・チェックのシャツなんかを好む同志社出身のTさんと、京大出身でカント哲学をやってて、卒業後は長いことホルモン焼きの屋台を引っ張っていたというMさんという二人のオジイさんに、この数ヶ月は翻弄されてしまった(笑)
なんせ、この二人は連絡するのにネットどころか、FAXも怪しい。

つまり、FAXするときに本人が機械の前に居て、受信ボタンを押さないとイケないらしいのだ(笑)
結局、この二人には電話もするけれど、携帯のメモリーチェックもできず、要するに手紙かハガキが一番確実なのだ(泣)要するにあることを伝えようと思うと2〜3日かかるのだ。

そんな愛すべきオジイさんたち二人が、示し合わせて東京へ行って某・知り合いの判決公判を傍聴したときに会ったひとを是非とも京都に呼びたいと言うので、「ああ、それはイイですね」と生返事を返したら、オジイさんたちは本気で驀進して、あちこちに電話しまくり、あっという間に数十名を集めた。
ウチの店は、本来二次会でということだったのだが、近隣のある寺院に断られて、結局ウチのカフェで最初から最後までやることになった。

かくして、バタバタと6月の初旬に『○○ティーチイン京都・哲学の道』は開催敢行され、80名強の聴衆の中で、和気藹々と実施された。当日の講師・プレイヤーとして招致された重信メイ・パンタ両氏には、二名のオジイさんに免じて、こちらの準備不足を詫びつつも、結局最後はこの二人の爺様の「純情」に頭が下がる思いであった。あのひとたちは、私が記憶しているかつての関西ブントの明るい側面を今でも体現している・・・60歳を過ぎてもなお、自分が良いと思ったことは積極的に他の人にも呼びかけるのだから。

メイちゃんが話し始めると、会場はシーンと波を打ったように静かになった。パンタがギターをかき鳴らすと、自然に手拍子が巻き起こった・・・
長い長い年月が流れた後の、今回の集いに合流した人達の様々な言葉が改めて身に沁みて感じている。
翻って、私はこの余りにも長い「大空位時代」を、今まで一体どうやって暮らして来たのだろう。
翌日、少しの興奮で眠れなかった私は、メイちゃんとパンタさんとで、西部講堂の三つ星の前で記念写真を撮るのを忘れたままだった・・・

Maypanta


| | Comments (0)

ストーンズを名古屋ドームで

この前の大阪ドームから約3年、あのときは自分自身を少しもて余していたような気がする。
なんとなれば私にとって「政治」ほど自身を翻弄したものはなかったからだ。
あの日は、新大阪の駅からウェスティン・ホテルまで着く間に、幾つかのブッシュの『イラク侵攻』を伝える号外を握りしめていた。忘れもしない3月20日であった。

荒れる気持ちを抑えるために、持参していたMPプレイヤーで何度も何度も「ストリート・ファインティングマン」や、「ペイント・イット・ブラック」、「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」などを繰り返し聴いたのだった。戦争をやりたければやったらいい・・・けれど、ブッシュは大統領を辞めても、きっと日本流に言ったら「畳の上では死ねない」ほど、全世界の抑圧された人達の恨みを買ったという他はなかった。

今回の名古屋公演はナゴヤドームで、もちろん初めてのストーンズの名古屋来演であった。
平均年齢50歳以上6名のクルーで、車で駆け付けたのだが、そのうち3名はストーンズ未体験者だった(笑)、中には、ストーンズのことを全く知らないオジサンやオバサンも居て、「まぁ、とにかく聴いて見てみたら」と、半ば強制的に連れて行ったのだが案ずるよりも彼らが一番ノリノリだった(笑)

40年以上も、同じメンバーで強烈なステージを叩き出すストーンズには、ただ敬服している。
今回はアリーナ席だったので、もしやと思ったけれども、やっぱりドーム中央まで迫り出してくるレールウェイには10メートル以内で接近できたのが嬉しかった。キースやロンの投げるピックは受け取れなかったけれども、ミックやチャーリーの姿が肉眼ではっきりと見えたのが衝撃的だった。
よく言葉で語られる『反権力』や『反体制』だったら、私たちも充分やり尽くしたと思うのだ。
それも自分の人生を簡単に棒に振るほど思い詰めて・・・私たちはかけがえのない友をあの運動の中で沢山失っていって茫然自失していた過去がある。

でも彼らはあのような激しいコンセプトを内包しながら、還暦をとうに過ぎても仲良しで居られた。
アンコールの2曲のうち、やはり最後を飾るのは「アイキャン・ゲット・ノウ・サティスファクション」だった。そうだ、そうだ、満足なんかしている暇はないのだ。満足なんか・・・・・

200645_4

| | Comments (0)

友との再会を祝して

ああ、久しぶりの更新になるのかも知れない。

言い訳になるのは免れないけれども、もともと欲張りにも複数のHPやブログを手がけているうえに、カスタマーからのWEB構築やら、CGIプログラムなどにかまけていると、ここのような個人的な「つぶやきモード」は、日常ルーティンの中で、一番プライオリティー(優先順位)が低くなってしまう・・・
ついこの間も、数少ない読者の方から、「あの後、ちーとも更新してへんやないの!!」と、面罵されて月日の流れを思わず体感させられた次第である。反省すること至極であり、今後とも肝に銘じたい・・・

そういう訳で前回の後日譚になるのだが、名誉毀損罪で半年以上も囚われていた我が友は、1月20日の神戸地裁での証人尋問の後、実に4回目の保釈申請が通り、ようやくシャバで私たちとの合流ができたと報告しておこう。私の昔の記憶どおりというか、もともと小太りだった彼は、長期の国家的施策でもある麦飯ダイエットのおかげで、気のせいかダラけた腹回りなどはピシッとした感じで再会できた(笑)
彼の良さは、何処にいても、ついつい正直な自分を出してしまうということであろう。

再会の場所は、ある関西での運動現場に燦然として輝いていたイデオローグの論文集の復刻出版記念会であった。残念にも、最早そのイデオローグは亡くなって久しく、「ああ、一度は対面したかったなぁ」と思う次第ではあるが、過去の私の青春時代には彼がものした赤い表紙の著作だけは今も大事に所蔵していた。我が友=檜森は、国内に帰って逮捕され釈放された後も運動を思い、件のイデオローグの「ブント・カフェ」と「ブント・マンション」を何回か訪ねて行ったらしい。

このような経緯で、復刻された論文集には、当時の私たちの問題意識が当然ながら詰まって居るわけだが、ここでは細かく触れない。私たちの限られた「大学生」であるという意識の中からは、その文献の中にある「ブルジョア」とか「プロレタリアート」という根本的な概念すらが、当時として余りにも実感できていなかったと言っておいた方が正確であろう。その双方のどちらにも組み入れられていないアモルファスな存在だった私たちが、その後もどのような人生を送ったのかは、あえて後生の批判を待とうと思う。

被告である友の第一声は、「再び会えてよかったですよ」であり、私の第一声は「おお、決まってるじゃん」であって、後は何も説明が要らなかったと言っておこう。木屋町の夜はかくて更けていって、何十年もの隔絶した世界はお互いが意識の中に溶解したのだった。
彼の語る、70年以降の京都・同志社の風景が私自身の風景に重なっていることは言うまでもないけれど、この後の彼の背負うあの時代の十字架については、私も何らかの意味で関与している訳で、何時の日にか、二人だけの総括を世に問いたいと思っている。願わくば、彼の思いが1糎でも届くような世界が来るようにと・・・


matsuoka2

| | Comments (0)

『結語』のみが求められる世界に

先週の土曜日から昨日まで、ずっと自宅を空けて京都と神戸に居た。

続けざまに、昔の仲間とおぼしき人たちと会い、普通なら気分がハイになっても良いところなのだが、12月19日(月)の午後から神戸地裁にて行われた友人の刑事裁判を傍聴してから、逆に少し滅入ってしまっている・・・

今回、裁判の被告の友人の名は松岡利康君と言い、本来ならば7月の私たちの『水平線の向こうに』出版記念会で再会して、かつての旧交を温めるはずだった人なのだが、無粋にも権力・神戸地検はその数日前に彼を刑法203条「名誉毀損罪」で身柄を拘束・逮捕してしまったのだ。私としては、彼が娑婆に出てくるまで、自分のできる範囲での支援をしていきたいと思っている。

***刑法第230条***

<名誉毀損>
第一項 公然と事実を適示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。

***刑法第232条***
<親告罪>
第一項 この章の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
(付け加えておくならば、この条文の直接のルーツは明治時代のままである)

つまり、松岡君はこれらの構成要件を満たしたということで、某大手パチスロ・メーカー(法人)と、某関西人気球団の職員だった2名の個人から、なぜか同時に告訴されて、現在は神戸の拘置所に収監されているということである。「月刊ペン事件」、「噂の真相」以来の逮捕・起訴であったらしい。

松岡君がやっていたのは「鹿砦社」という出版業である。それもフツーの出版業ではなく、タレントの暴露記事や追っかけ、その他権力との癒着企業の内部事情とかを執拗に追いかける、いわゆる「スキャンダリズム」を信条とする欧米で言うなら「イエロー・ジャーナリズム」に近似したものであったと聞く。しかしながら、あの雪印を告発した西宮冷蔵の社長を支援して、彼の本まで出してやったという正義漢でもある。

彼が逮捕された直後に、彼の救援活動として、いくばくかのカンパもしたけれど、なにか自分の中では不完全燃焼のような気がして、実際に自分の足で神戸地裁まで出向いてしまった。私にとっては、あのときの隊列の中の誰かが苦しんでいるのなら、今の自分の力の及ぶ範囲で寄り添っていたいという気持ちがいつも先行してしまうからだ。檜森のときも掛け値なしに、そうだった。

実は、松岡君をあらためて法廷で見て、「ああ、やはり彼なんだ」と鮮明に思い出した。
私も、青春のある時期に、自分の立命館大学には居られずに、京都御所を挟んだ隣の同志社大学の学館で政治亡命しながら運動を継続していたからだ。71年4.28沖縄反戦ディーの日比谷公園に、汗をかきかき遅れて来た京大C戦線や同大全学闘のメンバーの先頭付近に彼が居たような記憶があった。

私たちは、もとよりそんな「頼りない記憶」だけでも充分な友情が育める最後の世代だと思いたい・・・だから、彼は紛れもなく友達に違いないのだ。彼が保釈を勝ち得たときには、私は惜しみなく彼を支援して行きたいと決意している。

友の裁判は第二回公判を迎え、関西某人気球団のスカウトだった二名の告訴人の陳述がこの日のメインだった。二人目の元スカウトの顔と名前は、「あれ、この人って?」と思い出した・・・
某在京人気球団のキャッチャーだった人のことである。控えとは言え、テレビで見た彼のしぶといバッティングを思い出しながら、スポーツマンらしい短い彼の陳述をメモしていた。

実は私は、その昔在学中には、関西の学生だけで組織していた「関西学生法律連盟」の刑法担当学生委員だったことを久しぶりに思い出した。その立場から言えば、今回の告訴人陳述に関して、松岡君がビルから落下死した古参スカウトの遺族・・・とりわけ、その長女というWさんの「父は球団の関係者に殺された」という説に感化されたという訳が、どうやって考えても、とてもしっくり来なかった・・・

ちなみに、現時点で現存する長女WのHPとブログは誰でも検索できる。
「某T球団・スカウト自殺」でも出ると思うし、その他の方法でも検索できる。

結論を急ごう。松岡君が「有罪」かどうかを論議する以前の問題として、長女Wの『結語』は、あまりにも常軌を逸しており、自分が遺族として球団の処遇に不満があったことばかりを言い募り、なおかつ自分は取り調べに当たった検事は信頼できるので、自ら「在宅起訴」を望んだと言い、「気持ちがスッキリした」とも書いてある。他方、松岡君は多くの事を知る自分を単に焚き付けただけなので、逮捕・拘禁されるのは当然だと。

これでは松岡君の言う「浮かぶ瀬」は、一体どこにあるのだ。
支援の会も、三回目の保釈請求が却下されたとガッカリする暇はないだろう。
長女Wの明らかな虚言癖とか、彼女のフリー・ジャーナリスト転身とかいうインチキ加減さをズバリ指摘して、逆に松岡君は正義感からの一連の被害者だったという他はなかろう。

友よ、辛いだろうけれど、この現実を直視して、次の再起を図ろう。
もとより、私たちは「後退戦」を戦うことによって、自らを覚醒させて来たし、それゆえその時々の友の大事さを誰よりも知っているはずなのだ。
「表現の自由」という思想の深遠さは、誰よりも私たちが身を粉にして守ろうとした。
『結語』だけが一人歩きしやすい、この時代に生を営み、正義感から世の中を覚醒させ、不正を正そうとした自らの姿勢は間違っていなかったと、誰もが認めてくれる日が来るまで・・・

kpbecourt

| | Comments (1)

気分を一新する試み

店をオープンさせて以来、毎週往復350Kmを走っていると、運転中には様々な倦怠感に襲われる・・・

おまけに、深夜の名神高速は延々と続く銀色のアルミ箱のようなトラックの行列で、思うような速度で走れないのだ。
マナーの悪いトラックだと、信じられないような低速のまま(おそらく75〜80キロ)で、いつまでも右側の追い越し車線をダラダラと走り続けているヤツがいるのだ。
当然にも、あっという間に10数台の行列ができてしまい、それら全ての車が明らかにイライラとしてみんなパッシングを繰り返す羽目になってしまう。BMWだろうがメルセデスだろうが、まるきりおかまいなしという中で、そんな遅いトラックのすぐ後尾に付いた日にゃあ、それら後続のチカチカをまともにバックミラーに受けてしまうことになる。もの凄くストレスを感じて家に帰るとグッタリとしてしまうのだ。

そんな混雑する高速道路の事情でも、一定程度速いSUVなどは、けっこう優雅に追い越していたりするのを何度も目撃するに至り、これまでの自分のポリシーを変えてSUVを模索した結果、新しく『日産ムラーノ』を導入することにした。レンジローバーとか、BMWのX5、トヨタのハリアーも見に行ったけれども。

これにより、BMWワゴンは街乗りで・・・高速の遠出にはムラーノで・・・という路線に切り替えるとともに自分の気分も一新・転換してみたいということなのかな。

試乗してみて、当然にも目線が高くなるので、高速道路での車線変更などにはタイトな感じが無くなった。排気量3,500ccで前進6速MT可能なCVT仕様は、何のストレスもなく加速できて、車重1.8トン近い図体を楽々と運んでくれるのが嬉しい。ただ、スピードメーターの上限が「180Km」なのは寂しい。外車は輸入時のままで、小さな車でも軒並み「200Km」以上なのだもの・・

murano1

これでようやく、京都への「通勤用」の車として、ムラーノは活躍してくれそうだ。ただ、冷静に考えると、そのもともとが北米仕様なだけに、あまりにも威風堂々とした車体の大きさは、あのチマチマとした京都のパーキング事情には、いかにも手に余るようなのが不安である。ちなみに買った車はスーパブラックという真っ黒けのものである。
これで高速をマット・ビアンコとか、ボズ・スキャッグスとかを聴きながら流して帰ってこれたら、それはそれで、究極の癒しになるのかも知れない。


murano2

| | Comments (0)

丸善京都の閉店に思う

久しぶりに更新・・・

書くことがなかった訳ではないのだが、今までとデスクトップの違う環境の中で、じっとしている時間が少なくて、気がつけば毎週いつも名神高速でBMWのハンドルを握っているという情況では、なかなか書く気が起こらなかったというのが真相である。帰ってくると思いの外グッタリしているのだ。

昨日10月10日をもって、丸善京都店が完全に閉店したという。
maruzen

地元の新聞やネットでは、けっこうたくさんの記事があり、かく言う私も2度ほど閉店前のセールをしている河原町に行ってみた。
学生のとき、更に卒業しても就職もせずに、ひたすら外国の思想史の書物を読みふけっていたとき、丸善には一乗寺から毎週のように通っていた。主として洋書売り場で新刊をチェックしていたのだけれども、今から思えば大変に外国書籍の単価が高くて、よくもあんなに買い揃えたものだと思う。
文字通り、生活を犠牲にしてでも、自分の中の「日本人」を根底から否定したかったのだ。

当時の西独ルフターハント社のルカーチ全集や、エルンスト・ブロッホ、さらにはブレヒトやヴェンヤミン、イシュトヴァン・メサーロシュなどの独語の著作・・・仏語版のジャン・イポリットや、サルトル、ポール・ニザンなどの原書をとにかく買い集めた。あれはあの時期の私が背負ったひとつの「狂気」だったのだろう。もう日本には私たちの「思想」など無いと頑なに思いこんでいた。

「時代の閉塞感」を理由に、小泉自民党が選挙で圧勝したなどというふやけたポッと出の評論家がTVなどで大きな顔して無能極まりない自説を展開しているが、1972年当時の私たちが置かれた「閉塞感」など彼らには一生解るまい。
なんといっても、彼らは本来ノンポリで、自らは何の運動も経験せず権力に弾圧されたこともないのだ。私が選挙に行かないのは、候補者が私よりも遙かにノンポリだからということでもある。

閑話休題・・・丸善には、そうした意味で、手軽な『外国』を求めて通っていた。
昔の京都店スタッフには、私の求める難題とも言える要求にもスンナリと答えてくれる人たちが居た。

この丸善京都店には、独特の歴史があると思う。
昔、福島から来た同じ法学部のK君は、私よりも2歳年上だったけれども、梶井基次郎や中原中也の熱狂的なファンで、どうしても京都の大学に入りたかったんだと言っていた。
梶井が京都丸善で、「黄色い爆弾・・・檸檬」を爆発させたんだよと彼は熱く語って、コンパの後に荒神口の八百屋でレモンを幾つか買って、丸善に向かって行った・・

その後の私は、洋書を買う以外にも文具の売り場にも通った。
広い意味での文筆業や、研究者を目指していた私は、とりわけ筆記具をたくさんこの店で買った。

Lapita

この、丸善京都店の撤退・閉店が、京都での書籍文化・知的パワーの衰退と考えるのは自然な流れなのかもしれない。既に、紀伊国屋など大型書店は京都にも多く、丸善のスノッブな品揃えや、学者さま特待のシチュエーションは、確実に衰退しつつある。

にもかかわらず、私は確約されていない京都市内中心部での丸善京都店の再出店を心待ちにするだろう。かつて、研究者や文筆家として生計を立てようとした自分の歴史の記念碑としても、変わらぬ佇まいで、河原町周辺にあったら良いなと思うのだ。LAPITAの特別「檸檬万年筆」記念誌も購入したのは、そのためだった。京都丸善で買った筆記具を掲載して置いて、私の当時の思いを伝えておきたい。


stationary

| | Comments (0)

デスクトップの飛躍的『改革』

ああ、やっと選挙が済んだ。
結果は皆の知るところ・・・アホらしいの一言だ。只々つまらんとしか言いようがない。

当方の住む小選挙区某県1区は、例の「刺客」騒動と、その刺客のお姉さんの不倫メール500通で一躍有名になったが、それ自体何の経済効果もないどころか、県民全体の「民度」がどの程度のものかを全国津々浦々まで知らせることになった。

結局のところ、前回と顔ぶれが変わった訳でもなく、世襲の議員の息子も無難に当選した。
二大政党制なんぞは夢のまた夢ということであろう。初めての選挙権を得た息子は、左京区で期日前投票を済ませたうえで、地元の4候補の選挙事務所に個人的な取材と称してくまなく訪問して、いろいろと質問してきたらしいが、果たして勉強になったのだろうかは疑問である(笑)

そもそも『構造改革』という言葉自体が、保守政権から発せられること自体が私たちの世代からは、とても違和感がある。私たちの若い頃は、『構改派』というのはグリーンや赤のヘルメットを被っていた私たちの仲間の過激な諸君であった。いわゆる「フロント派」とか「プロレタリア学生同盟」というのが、それらを総称する新左翼運動集団でもあった。

今、小泉が主張する『構造改革』というのは、言葉もコンセプトもその意味で完全なパクリでしかない。一緒に戦った私たちの仲間の背中から、何の断りもなく剽窃したものにすぎない。
今時は歴史を勉強することに若い人はとても苦手だという。

外国の例を見るならば、「保守」がいいなぁと心底から思う人たちは年収3000万円を超える人たちが主流で、キチンとした階級意識に根ざしているのだろうけれども、この国は年収300万円にも満たないひとが自民党に投票しているようだ。大いなる勘違いだと笑ってしまう他はない。

これで、この後の増税ラッシュと憲法改正、福祉切り捨てなどの国としての右傾化・保守化は益々激しくなり、息の詰まるような管理国家になっていくのだろう。
キリがないので、とりあえず、この件は今日はこれまで・・・

さて、選挙の結果を受けた訳ではないが、オフィスのパソコン環境を私なりに劇的に「改革」した。
長年使っていたメインのコンピュータを、MacG4からG5に変えて、さらに23型の大型ディスプレイを導入した。目の衰えが著しかったからだ。

機械の「改革」は、とても快適である。
G5にはメモリーを2G積んで、重いOSXをサクサクと動かしている・・・
きっと、この先もこれらMacな環境と付き合っていくのだろう。

2005年9月11日は、とても「暗い日曜日」だった。
かつて同名のダミアのシャンソンを聴いて、たくさんのヨーロッパ人が自殺をしたという。
出口のない世界からの脱出は、もうちょっと先になるだろうから、目前のデスクトップだけでも意のままに動くようにしておこう。


onthejob

| | Comments (1)

高橋さんの『孤立の憂愁』という概念

かつて、私が敬愛する高橋和巳が書いた『孤立無援の思想』というエッセイがあった。

アリストテレスは「人間は政治的動物である」と断じたが、中国老荘思想では「人間は自然内存在である」と規定したし、さらに近代になると「美的だ、いやそればかりか倫理的な動物に違いない」として「人間」の存在に積極的な意味付与をしてきた過去がある。
今時の哲学がさっぱり流行らないのは、こうしたどこまでも人間賛美の脳天気なオプティミズムが、とうとう超えられぬ現実の壁にぶち当たって、全体と言うよりは個々に解消してしまったことによる。
つまりは、誰もが自分の頭で考えられず、与えられた僅かな選択肢の中でしか「表現」できなくなったということだ。

少し長いが是非とも引用したい。

>思うに内蔵の一部分、たとえ心臓がむやみに気にかかるという状態は、その人の心臓が病んでいることを意味するように、私達にとって、政治のことが気懸かりなのは、人間が人間の生活を律する自立的道徳から経済的調整に至る幅の大きな部分に激しく病んでいる部分があることを意味する。
しかし、もし幸運にも病苦を忘れうるなら、私は必ずしもその忘却や無関心を非難はしない。
その人にとって、より重要な課題が選ばれているなら、政治は力ずくで何事かを強制することはできても、彼の関心を自分の方に常時縛りつけておく権利は持っていないからである。
政治の方法論とは、要するに、人間の社会の病める部分に関する「知恵の体系」であって、何らかの価値を作り上げるための基本的条件である「健康」に到達すべき指針を指示はし得ても、健康に立ち返って後に、「創造」される諸価値については、ほとんど何の発言権も持っていないからである。
(河出書房新社『高橋和巳全集第十二巻』より)

ここに高橋さんの「政治」というものに対する揺るがぬ彼のスタンスを感じた・・・
それと同時に、当時は命を懸けた若者の隊列の中で「病める者」=「行路病者」として、悩み苦しんだ私自身の姿が浮かんで来るのであった。

現実に目の前で繰り広げられている「政治」は、実のところ『人間の社会の病める部分に関する「知恵の体系」』に過ぎないのだと我が師は喝破していたのだろうか。

目を転じて、マスコミを賑わす「刺客」騒動や、「除名処分」、「新党結成」も、高橋さんが生きていたらやっぱり只の「人間の病める部分」に過ぎないのだろうかと思えば、随分と気が楽になるものだ。
私は選挙に行かない。ある日絶対に行かないと決めたのだ・・・
今、目の前で繰り広げられている「政治」なんか本当の私達の政治ではない。
結局のところ、みんな病んだままなのだ。
だから簡単に野合したり、煽てに乗って立候補したりする。

「孤立」も「無援」も、昔からとても重たい現状だけれども、もう30年以上も私ひとりで耐えて来た。
そんな情況の中で、自分を簡単に見失って節操を曲げるひとたちを見ると、とても悲しい。
小泉だけではなく国民もきっと病んでいるのだろう。

kazumi60

| | Comments (0)

健全でない『保守主義』と右傾化の嵐

ちょっと前までは、政治という現場において、「右でもない、左でもない」という言葉本来の中立的なひとたちが整然と世間にけっこうな列を成していたように感じていた・・・ところが今ではどうなのか。

そうした、かつての「リベラル」という意味での潮流はほとんどその旗幟が鮮明にならずに、なべてが「右」へと流れて集束して行っているような気がする。そういうリベラルを標榜していたひとが、なおも政治に参加すればするほど、今では全てが簡単に「右」一本に絡め取られてしまう。今では対抗軸が民主党しかないから。
小泉の「統治」4年間は、その意味でもともと脆弱だった日本の旧「リベラル派」の依って立つ基盤をボロボロに崩壊させた不毛のときであった。

日本遺族会の会長で、自ら「保守本流」を自認する自民党・古賀は、靖国神社問題では小泉に異議を唱えながらも、郵政民営化国会では反対票を入れずに、ひっそりと退場した。もう彼には誰もついて来ないということだ。
もとより、政治の世界で自ら「保守」と名乗っていること自体が、私や全共闘世代の人々にはダサイことなのだけれども、時代の波に呑み込まれていく「保守本流」の胸中について、今後どのような思いが去来するのだろうと考えている。

かつて、「社会主義や共産主義までには行き着きたくない、でも自由でありたい」というひとは、旧社会党や共産党には寄りつかず、狭い選択肢の中で自民党内の反対派で留まっていたのだろうか。
そういうひとたちの棲息する場は、今では国政でも地方でも完全に縮小しているように思う。
小泉は選挙民に向かって単純な問いしかしない。彼の与える選択肢は常に「2つあって、ひとつ」しかない。
誰かのやり方に似ていると感じた。そうそう、あのブッシュと一緒なのだ。

この国の右傾化は、端的に言って1972年、私達も関連していた『連合赤軍』の敗北から始まったと思っている・・・
この私の考え方の一面性や、狭量な背景については充分に承知してはいるのだけれども、なおかつそう言わざるを得ない。今起こっているこの国の「右傾化」は、あの寒々とした冬の敗北の日々から綿々と続いている・・・

文字通り、日本におけるリベラルな政治家の最後を飾るのは、ひょっとすると「石橋湛山」かも知れない。
資本主義か共産主義かという究極の舵取りの中で、「中道」を目指そうとした政治家は、彼のように首相にまで登り詰めることが困難な時期にある。簡単な問いの後に来る「ナショナリズム」の嵐に、ほとんどの国民が瞬時に二分化されてしまっているからだ。

とりわけ、司法における「右傾化」は厳しく、裁判官は最早その独自の機能と立場を放棄して、安易な「国体」に流れつつある。もともと彼らは法曹界の「優等生」でありたいから、その職を選ぶ構造になっている。
彼らの閉ざされた仲間内だけの付き合いでは到底「民主主義」やら、「国民主権」は成就できっこない。

我が友、鹿砦社の松岡君の言論による「名誉毀損罪」逮捕は、とても許せない構造の中で、司法の右傾化を如実に物語っている。個人の自由を制限して余りある表現を閉じようとする試みについて、私は渾身の力を込めて弾劾するものである。


kakuryo3

| | Comments (0)

「刊行記念集会」に寄せて

去る7月某日、私のカフェに夕方から三々五々と昔の仲間や、新しい友人たちが駆けつけてくれた。

それとは別に、『水平線の向こうに』という本の「刊行記念集会」をどうしても私の店でやりたかったのだ。
この3年間、ストイックなまでに自分を律して刊行までに辿り着いた本の、いわゆるケジメをどうしても最後は京都でやりたかった・・・

思えば、2002年5月25日に鴨川に架かる夜半の荒神橋で、法闘委委員長が私の紫のハンカチから散骨した桧森の白い粉は、夜目にも分かるその白さ故に、何故かまだ本人の「言い足りないこと」を残された私達に書いておくれという伝言にも思えたのだ。
夭折したひとたちの伝えられなかった事どもの重さは、3年では言い尽くせないことなどを知りつつ、私はただただ「刊行」に向けてひた走っただけだった。
振り返ると、この間は理不尽な理由で突然にも友を失った自分に対しての客観的な立場の評価を一切拒否していた。

いわゆるケジメはついた。
ところが、私のかつての人生の重い暗い「思想の暗部」が、いっきに晴れ渡った訳ではない。
本当に私の寄せた文によって、ひとは私の本当の悲しみを理解してもらえるのだろうか。
一般的に敷衍された「言葉の危うさ」についての根源的な疑問について、私はなお懐疑的である・・・

集会の終わり頃になって、桧森の最後の恋人という中原蓉子と、私は無言で固く固く人目も憚らず抱き合ってオイオイと声をあげて泣いた。それはどちらからともいうことなく、自分にとって大事な人間を死なせてしまったという二人だけの暗黙の了解のうちのことだった。この間の彼女との電話のやりとりでお互いが随分と泣いた。

私のこの3年間の総決算と言うなら、亡き友の「表現」を余すところなく書き切ることでもあり、また私自身の紆余曲折についての総括をすべき年月でもあった。

店に用意したプロジェクターとスクリーンには、「立命館全共闘の記録68-69」と、映画「パルチザン前史」しか上映しなかった。日比谷公園とかレバノンでの桧森の映像とかも用意していたけれども、そこで語る彼の映像を見るともうそれ以上、自分がキープできなかったのだ・・・


7

| | Comments (0)

今日は母の命日だった。

昨日は、午後10時近くまで京都に居て、京大生の息子と一緒に百万遍あたりで遅い夕飯を食べてから、BMWのハンドルを握って2時間近く走り続けて名神高速で帰ってきた・・・
月末なので、本業も副業も忙しくて愛犬もなかなか遊んでやれないのが、とても残念ではある。
犬の命は短くて、飼い主が思うほどは長くない。

気が付いたら、今日6月30日は母の命日であった。
母が亡くなったのは、私が小学校一年生のときで、ちょうど、かかりつけの医者が往診していたときだった。
私は、学校から帰ったばかりで無邪気に家の前の小さな庭で、バケツに水を汲んで庭にいる蟻たちを笹の葉に乗せてグルグルと回して遊んでいた。6歳のときの私には親しい近所の子どももなく、いつもひとりで遊ぶクセがついていたのだ。母の結核の病状は思いの外に悪くて、私はその数日前から母と隔離されていた。

そのときの私について言えば、なぜか鮮明に服装だけは覚えている。
お気に入りだった白地にグリーンの横縞ストライプが入った綿の襟付きシャツと濃紺の半ズボンを着ていた。
母は、私の着る服の色使いや、デザインにはとてもうるさかったらしい・・・

家の奥から、みんなのすすり泣く音が聞こえてきて、私も何があったのだろうかと家に入ろうとしたら、一番年下の叔母から、「ダメ! あんたは入っちゃダメ!」と言われて、子供心にも、「ああ、なんか事態が急変したのだろう」と思ったし、叔母さん達の狼狽ぶりは尋常ではないことだけは見てとれた。

30分ぐらいしただろうか、主治医の先生が私に「お母さんに最後の挨拶をしたら」ということで、奥の母のベッドに恐る恐る行ってみたら、母は何も変わらぬ様子で静かに横たわっていた。
この母は、ついこの間に私の小学校最後の遠足にも付き添ってくれたし、私の声楽コンクール初出場のときにも正装して出席してくれた。彼女自身が、ドイツ・オペラ、ドイツ・リートの歌手だったことも私のDNAに影響したのかもしれない・・・

母の葬式は、子どもだった私にとってはとても荘厳で、私の知らない人達が一杯来ていた。
葬式の最後に、お棺を開けて故人の顔を見るとき、全く知らない白髪の紳士が泣き崩れてお棺に取りすがっていたのを思い出す。このひとは、生前の母の大ファンだったのだろうか。

幼かった私は、町内のひとたちの前で母の写真を抱いて、ただただ会釈をして、頭をペコペコ下げて霊柩車に乗った。乗った途端に、大きなクラクションが鳴って、私の視線の彼方に、当時のクラス委員で学校を代表してくれて来ていてくれた担任の先生とアツコちゃんの顔が見てとれた。彼女はわたしを見つけてくれると、その場に泣き崩れて、小さく私の眼に頷くのが精一杯だった。今思い返すとアツコちゃんは初恋のひとだった・・・
私は、それまで「絶対に泣かない」と我慢していたにもかかわらず、思わず母の遺影を抱いてシートにうずくまった。

何十年も過ぎて、中古で買った家を壊して新たに建て替えるということで、偶然にも引っ越した借家の隣の奥さんに挨拶に行ったら、なんとそれがアツコちゃんだったのだ。「ああ、感じの良い綺麗な奥さんだなぁ」と、妻と喋っていたら、突然にも彼女がピンポンと玄関のドアホンを鳴らして、「絶対に私の記憶が間違いなければ・・・」と、言って、私達はあらためて随分と久しぶりに再会した。偶然にもほどがあるという話であった。

そんな訳で、私の人生には節目節目に印象的な女性が登場する。
でも、それは私が恋いこがれていて無条件に好きだった物静かで、憂いを帯びて口数の少なかった母への満たされなかった恋慕なのかもしれない。自分で自分を分析しても、何ら良い結論は得られないだろうけれども、私はこれまで、自分が悲しいと思えるときには、随分と女性達の力を借りて来たのだなぁと思う次第である。

mamandme

| | Comments (0)

マット・ディモンの若さゆえ

DVDの二連作となった「ボーン・アイデンティティー」と「ボーン・スプレマシー」を日曜の夜に続けて観た。

ここで言うところの「ボーン」は、「bear」であり、「保つ・帯びる・耐える」という意味であり、今では英語もウロ覚えの私は少し誤解していたかもしれない。元CIAの殺人専門職だった若者が、国益を体現するために外国の要人を暗殺したりするのだが、任務の遂行途中のアクシデントで彼は全ての記憶を失ってしまう。ところが、彼が世の中に不如意に出てくるのを危惧するCIAは、本気になって彼を消そうとするのだけれども、彼の体内記憶にある「殺人技術」がズバ抜けて温存されており、ほとんど全ての刺客が返り討ちにあってしまうというのが「第一作」・・・

今度初めて観た第二作は、前作で一緒にインドに逃げた彼の理解者でもある彼女がいきなり刺客に殺されてしまう。殺した相手は、ちょっと前のKGB幹部みたいな感じの手下で、冷戦終了後のCIAとKGBの幹部同士の汚職に関連する秘密を保持したいがために、記憶喪失のマット・ディモンをある犯罪の犯人に仕立てあげるという要領である。そしてマットは、はるばるインドからナポリ、ベルリンからロシアへと敵を求めて旅をするのだ。

とても気になったのは、最愛の彼女が激走する車の中でスナイパーに撃たれて死んで、車が川に落ちたときに、マット(ジェイソン)は余りにもそっけなかったと言うことである。
同じようなシチュエーションで、まず思い出したのは「リーサルウェポン」の同じく恋人を殺されたときの水中に放り出されたメル・ギブソンよりも「悲しみ」が足りないような気がした。
おまけに、彼は彼女の写真をどんどん焼いてしまって、結局一枚しか手許に残さないのだ・・・

私にはこんなことはできない。
人生を重ね合わそうと決意したひとが死んだら、その思い出の全部を墓場まで持っていくだろう。
マットは若い・・・
若さゆえに、彼はまだ異性の相手を通した『自己実現』のやり方を知らなかったのだろうか?
もうちょっと古い作品で「ヒート」という映画があり、ロバート・テニーロとアル・パチーノが追われる役と刑事役をやっていたのがあって、それにはとても見入ってしまった。
非合法の世界に生きる男が、そうではない世界の女性を愛してしまったとき、どうやって彼女を守り続けられるのかは大きな課題ではあった。その意味では私も何とも言えない過去に生き続けている。
映画を見終わったときに、私が感じたものはおそらく深い「悲しみ」ではなかったかと振り返っている。

borne2

| | Comments (0)

疎水に蛍が似合う訳・・・

昨日まで、京都に居てまた帰って来たのだけれども、どうやら「哲学の道」にはこの季節ホタルが出るらしい。

そういえば夕方から、けっこう人出があるので、何だろうとは思っていたのだ。
一昨日は、サッカーのWカップ予選があったので、息子の待つ家に帰って一緒に夕飯でも食べようと早めに帰ったのだが、息子は退屈そうにしていたので風呂に入ってから、「おい、ホタルでも見にいかへんか?」と、誘って、銀閣寺方面へそぞろ歩いて行くことにした。

途中、広い京大キャンパスの北部構内を横切るのだが、理学部の建物の横に突然に銅像が見えてきて、よく見たら湯川秀樹の胸像であった。持っていたデジカメでパチリと撮るのだが、これがまた怖い心霊写真のようで掲載を止めたと言っておこう(笑)

時計は既に午前1時を回っているのだが、キャンパスの中の学生街はまるで不夜城の如く電灯が煌々とキラめいていて、理系の学生たちが夜遅くまで大学に屯っていることがわかる。
ここは昔からこんな感じだった。文系の法学部や文学部では、こんなふうではなかったなぁ・・・

疎水に着くと、居た居た・・・ボゥッとした青白い光が川面に見える。
でも、ウチらの郷里の郊外に居るホタルに比ぶべくも無いチラホラさ加減で、かえってホタルには気の毒な感じだった。だが、しかし・・・ここは観光地であるとともに紛れもない住宅・都心なのだ。
それもなんと閉店したあとのウチの店の前に、たくさんの人垣があって、若いカップルや仲間たちが嬌声をあげながら、「あっ! ここにも居てるで」と誰憚り無く騒いでいる。
ホントにここら一帯に住んでいる人達は、迷惑だろうなぁとは思うけれども、若者達は一向に屈託がない。

久しぶりのホタルの映像をと思って、カメラの露出をオーバー気味に撮ってみたけれど、うまく映っているとは思えない。
だが、こういった人との共生の中で、カワニナだったっけ、小さな貝を食べながら生き残っていこうとしているホタルには、この先も若者たちを楽しませてやって欲しいと思う。疎水の水は唯一京都を北へ流れる川として、この後も生き残ってゆくのだろう。

とても綺麗な風景だった・・・

Sosui-hotal

| | Comments (0)

友へのお見舞い・・・

京都にカフェを作る・・・それも銀閣寺・浄土寺から法然院へという自分がよく歩いた場所で昔のことを思い出しながら、心の中でひとときも忘れることがなかった二人の学友のことを実は気に掛けていたのだ。

二人とも、二浪してウチの大学に来たひと。いつも、とてもウチらと仲が良かった・・・
彼らは、京都府立鴨沂(おおき)高校の同窓生で、当時河原町にあった立命館からは歩いてたった2分くらいの高校から進学してきた。彼らの同学年で有名なひとは、ジュリーこと沢田研二だった。(GSタイガースのヴォーカル)。
彼ら二人には、私が京都で運動している頃から、ずいぶんとお世話になった。彼らが今のカフェと近くに今も住んでいるだろうという期待で、 カフェが落ち着いたら連絡しようと思っていた。彼ら二人のその後については全く知らなかったが、それも住宅地図で見ると、彼らはわずか三軒しか離れていないところに住んでいて、なおかつウチのカフェとすぐ近くだろうということは見当がついていた。

その中のひとりの、T君の実家に電話すると義理のお姉さんという方が出て、T君は何年か前に京都郊外に家を建てて引っ越したという。勤めていた銀行も何と「定年」で、退職した後、その外郭団体に働いているという。
でも、私が居ない日曜日に家族揃って7人が来てくれたらしい。丁寧にコメントつきの名刺も置いていってくれた。それどころか、実のお姉さんというひとまで来てくれて、わざわざ挨拶してくれたのだ。

さて、もうひとりのO君であるが、同じように実家に電話すると、何と弟が出てきて「兄は電話に出られるかどうか解りませんが・・・」と言って、ある携帯の電話番号を教えてくれた。
その番号に何回かトライすると、ようやく目指す本人が出てくれて、「ああ、久しぶりです」と挨拶したのだけれども、その後の彼の言葉には思わず心が凍り付いてしまった。
「実は去年の年末に、仕事の過労からか、血管に血がうまく通わない病気になって半身不随になってしまった」と言う・・・
「カフェのオープンはおめでとう。だけど、もう僕はどうしたって行かれへん、お見舞いにも来んといて欲しいんや。」

私は・・・そのとき、私は電話口で訳もなくただ号泣する他なかった。

彼こそが、あの毎年8月16日の大文字のイベント保存会に寄与する正統な名字を持つ唯一の伝承者の家族にあり、私自身も大文字というのは、如意ヶ岳に登ってオイルを沁みこませた新聞紙に、なんとも原始的にマッチやライターで火をつけるのだということを教えてくれたひとだったからだ。京都の思い出に彼のことを忘れたことは片時もなかった・・・

彼には、若いとき、筆舌に尽くせぬ大きな義理があり、いずれにしても何時かは返さなければならない「借り」がある。過激派だった私の替わりに、デモの申請者になってもらったこともある。
それに私の若いときの「小さな恋の諍い」(吉本隆明・・・)にも彼は、自らの不利益も省みず、様々な局面で私を金銭面や、その他の局面で支えてくれて、ようやく今日の私があると認識しているのだ。
お見舞いに・・・
嵯峨野に住む精神状況の不安定なT君と、O君とは兄弟のように仲が良かった宇治に住むN君と3人で、心からの「お見舞い」をしたいと願っている。なぜならば、私達はあのとき、どうしようもなく「仲間」だったからだ・・・

Daimonji

| | Comments (0)

京都のタウン有力誌に紹介されました。

ほんとうのことを言うなら、実は京都に店を出すようなビジネス的な脈絡は、ここ数年来ほとんどなかった。
実のところ、私は自らの次の拠点はオーストラリア・シドニーだと決めていたからだ。

シドニーは、人口450万人以上で、今は毎年5万人以上増殖しつつある。
湾岸の綺麗なロケーションには、高層ビルと緑豊かな公園が、絶妙なトリミングの中で素晴らしい自然な景観を生み出している・・・
この国は、かつての極端な「白豪主義」の推進の結果、未だに総人口が1900万人ちょっとという先進諸国では際だった人口密度の低い国であると言っても良かろう。

この国の政治体制は、とても際だった特徴があり、それなりに興味深い。
まず連邦制度である国家主権に近い政権は保守党なのであるが、州単位では圧倒的に労働党ばかりであり、完全な国内政治の「ネジレ現象」ともいうべき情況である。
従って、親米連邦保守政権はブッシュに従って、アフガンにもイラクにもとりあえず軍隊を出すのだけれども、それよりもシドニーやメルボルン、ブリスベーンなどでは「戦争反対」のパレードが常に何万人規模で挙行されるという奇妙な構図のままに国が動いている。
ちなみに私がシドニーに居たときに、地元各紙では日本で小泉が靖国に参拝したという記事を一面で報道しており、その論調もとても厳しいものであった。オーストラリア兵はかつて南洋戦線の各地で日本軍と戦い、多くの捕虜が虐待され死んでいったという・・・銀行通りにある戦没者記念碑に佇んでいた私の肩を後ろから抱いてくれたお年寄りは、「もうすぐ天国からのお迎えがあるかもしれないけど、貴方の国に行ってみたい。」と言ってくれた。彼は日本で言えばかつて少年航空兵だったという。毎週この広場に来ているらしい。

それでも彼らは、この国を訪れる我々日本人も含めてとてもウェルカムな雰囲気で迎えてくれる。
だから、いつかはオーストラリアで自分の会社を展開して、お知り合いになった彼らに囲まれて余生を暮らしたいと思うようになった。

私にとっては、ウェルカムな新しき異邦と、かつて8年間も住んだイケズな既知の京都と天秤にかけるようなこの数年間だったとは思うのだけれども、あるビジネスの透徹されたコンセプトを実現するには、どちらにおいてでも自らの力を試す意味において重要な機会ではあるのだろう。

Leaf4

| | Comments (0)

«「京都人」とのお付き合い