死せる者との対話は可能なのか
ようやく上梓の目途が立ちつつある友の『遺稿追憶本』(・・・と、呼んでもらいたいと法闘委の委員長は言った)は、最終の打合せの段階に入り、私自身の心の中の葛藤や、理由はあるのだが立場上許されなかった焦燥感などは、単なる杞憂に終わるのかもしれない。
しかしながら、どのような表現の形態をとろうとも、故人の言いたかったことの半分も語り尽くせなかったという思いで、この一ヶ月ほど深夜にまんじりともせず、自らの書いた文章を凝視するという日々が続いていた。
昔の京都の学生は、親しい友達のところに行くのにも、何処でもテクテクと歩いて行った。
むろん、電話などしない・・・ただひたすら、何キロも歩くのだ。時間は充分に有り余っていた。
思えば、京都は「箱庭」のように、何もかも近くにある、ちんまりとした街だったのだ。
電車やバスなどの交通機関を使うという発想もなかった。ただ歩けばその日に逢いたい目指す友人のところに辿り着けたのだ。まずは自分の足で歩いて行って、それから友の下宿の前に立ち、そこの大家さんの子供なんかに挨拶しながら、トントンと階段を上っていくと、目指す友は静かに本を読んでいたり、何かを書き付けていたりした。
それから、何とはなく話が盛り上がって、気付いたら翌朝になり、慌てて今日の講義の有無を確認するというような有り様だった。
その昔、中原中也も立命館中学に居たときから、引き続き京都に留まり、恋人の長谷川泰子が下宿していたという寺町の果物屋だったか、八百屋さんだったかの下から、精一杯の声を振り絞り、窓越しに彼女を呼んだという。そこから、ちょっとだけ歩いたら、梶井基次郎が洋書の上で檸檬を想念から爆発させたという「丸善」があった。
そこには切ない若者の想念を少しずつだけでも許そうという空間があった。
その頃、銀閣寺から法然院に行くと「哲学の道」や疎水の喧噪から離れて谷崎潤一郎の墓もあり、私達が夏には彼の墓の前で大量の蚊取り線香を焚きながら、文学や政治の話を思い切り大声で話していたら、見回りに来た法然院のお坊さんも加わって、「川端康成はアカン」とか、「三島由紀夫は考えすぎやでぇ」とかの話になってしまって収拾がつかなかった。まさに京都はそういうところだった。悲しい思い出なんか、本当のところ、ひとつもない。
私達は、その日のうちに会いたいと思うひとに会えて、思う存分に話ができた。
しかるに、友=桧森孝雄は、こともあろうに日比谷公園を彼の最後の死地に選んでしまった。
日比谷公園は国会議事堂と並べて語られるべき新左翼の「政治」の舞台であり、私達のような京都で運動していた者にとっては、ただのスケジュール的な虚仮威しともいうべきカンパニアの場でもあった。「解放区」でも何でもなかったのだ・・・
東京駅から、歩いていけるという距離にしても、今の私達には遠い・・・なんて淋しい「カモメの広場」だったのだろう。それに東京では、歩いていく道中に人達の「歴史」が詰まっているというビジュアルな感覚がなかった。あまりにも道が広すぎるのだ。
ヴェンヤミンがこだわった「パサージュ=小道や路地裏」などが概念として葬り去られていた。そこには、姉小路や六角通りや、聖護院やら、大原の坂道などに埋まっている多くのひとの歴史がなかった。
彼の遺骨を私のハンカチに包み、持ち帰って改めて荒神橋から散骨したのには、そうした禊ぎの意味があったのだと思う。
粗末な竹筒に「追悼桧森孝雄・パレスチナに平和を」と書き記してあった。
聞けば、その竹筒の仏花は、誰とも解らないひとが一週間くらいのサイクルで代えてくれているという。
私は、死んでしまった桧森に全身の思いを込めて問うた。
「桧森よ、ホントにここで良かったのか」と・・・対話の回路は既に閉ざされていたけれども、私の思いとしては「どうして京都に帰って来なかったのか」という疑問で一杯になってしまった。そこは日比谷公園でも、かつては私達が知る晴れやかな政治集会などが行われた野外ステージの真裏にあたる寂しい小さな公園であった。
竹筒に向かって、あてどなく語る私の写真は、そのとき同行してくれた伊賀蔵くんが、知らない間に撮ってくれたものである。これが、彼の『遺稿追憶本』を出そうと固く決意したとき(2002年)の私の姿であり、今も微塵にも揺るぎなき境位にある心境でもある。



Comments
泣いてしまったじゃないか。
マスター。大好きです。ちくしょう
Posted by: 薮 | February 16, 2005 at 10:49 PM
藪さんの後を追っかけて初めてこちらに訪問しました。
ついつい一時間ほど読み込んでいました。
私の掲示板に朝日新聞京都総局の方が昨日以下のような書き込みをしています。
>朝日新聞京都総局です。二十歳の原点について
お調べになったホームページを拝見し、メール
致しました。
このたび、06年の新年連載で、今出川通を
中心に、京都大、同志社大、立命館大が登場
する学生街ストーリーを企画しております。
そのうちの一つとして、高野悦子さんを巡る
ストーリーを書くべく、取材しております。
当時、彼女が通っていた「シアンクレール」も
はるか以前に無くなり、当時を知る方から
お話しをうかがう機会になかなか巡り会えません。
どのようなことでも結構ですので、情報を
いただければ幸いです。
突然に勝手なお願いで申し訳ありませんが、よろしく
お願い致します。
それで藪さんがこちらを掲示板に紹介くださった訳です。
久しぶりに読み応えのあるページにめぐり合い嬉しい思いです。
よろしければ私のホームページにもリンクを張らせてください。
ちょくちょくこれから訪問させていただきます。
Posted by: yamamoto | December 16, 2005 at 10:51 PM