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ワーキング・プアーとオリバー・ツイスト

映画の話にこと寄せて、今日は「貧困」について思うこと(1)・・・

昨夜の地上波NHKでの『ワーキングプアー2-努力すれば抜け出せますか』は、それなりに前回(2006.7.23放送)に引き続いて反響があったのだろうか?、ウチの家族が観ていたくらいだから結構な視聴率を稼いだのかもしれない。 
http://www.nhk.or.jp/special/onair/061210.html

聞くところによると、あのアベも首相就任前にこれを観てバタバタと急遽、再チャレンジなどという「あざとい手法」を考えついたというではないか。「人一倍働いているにもかかわらずどんどん貧しくなる」という社会は、極端に言えばもうプリミティブな「神の手」と人々の善意によってのみ成り立つレッセフェール=自由主義的資本主義ですらないということだ。

かつて、私が専攻していたフランクフルト学派の流れをくむ主としてドイツの社会学者たちは「後期資本主義=シュペート・カピタリスムス」という用語と、「高揚期の資本主義=ホッホ・カピタリスムス」という表現で、1960年後期以降の世界を語ろうとした。それが、旧マルクス主義の流れをくむ潮流としての最後の矜持ある時代予見だったと一笑に付されるのが1980年代だった。80年代は、貧困に心を痛め、貧困による社会矛盾に目覚め、貧困による人間の全世界的スポイル状態を打開しようとした良心的潮流の凋落が雪崩を打って溶解し右傾化した時代だったのかもしれない。70年代初頭でエゴを捨てようと提唱したひとたちが、90年代以降も踏みとどまろうとしたら、周囲が殆ど拝金主義的なエゴを賞揚していたと言えようか。エゴでひとなんか救える訳がない。

さて、新『オリバー・ツイスト』である。
新というからには旧作もあり、それは私もまだ観たことがない。
今回のDVDはプレミアム版で、詳細なメイキングの冊子が付録として付いている。
ディケンズの描いた「救貧院」出身の孤児=オリバーの若く悲惨な人生模様は、実はマルクスが亡命先・英国で『資本論』を書こうとした頃に先立つ時代の模様をリアリスティックに採り上げている。

監督がロマン・ポランスキーであることに特別の意味は無い。彼に「貧困」への思い入れはないのだが、差別への反抗心は前作『戦場のピアニスト』に続いて意気軒昂である。彼自身が身内を強制収容所で亡くしたという過去が大きいと判る。ロンドンまでの歩いて70マイルという距離に比例する隔離的な貧民孤児コロニーとナチ政権下の収容所は、ポランスキーにとってはほぼ時代を隔てた同義語なのだったとも思える。この映画では貧困が全ての原罪という捉え方はされていない。登場するスリの親方=フェイギン、スリの子供のリーダー格=ドジャー、仲間の売春婦ナンシーとかいった猥雑な人間関係の中でも、自分より困っているひとをとりあえず助けるという思想があって、観る者の側の救いを演出しているのだ。生まれながら究極にツイていなかった孤児のオリバーは、子供のなかった篤志家ブラウン・ローに拾われて幸せに生活を送ろうとするのだが、ロンドンに来たとき親切にしてくれた今は囚われて死刑囚となってしまった拘禁症状のフェイギンに面会に行く。このくだりが一番の共感を呼ぶだろう。

http://www.olivertwist.jp/

この映画に寄せて、現代のワーキング・プアーの事情を語るのは、ひょっとすると無理があるかもしれないのだが、強引な引き寄せをすれば、私も6歳で両親を相次いで亡くした天涯孤独の孤児だったということだ。映画のオリバーは、あのときの私と同じだ。子供ながらに自身の生涯の生き方を何時の日だったか、否応なしに選択を迫られたという歴史の中で、私自身は究極の自分の人生選択をして現在がある。文字通りの私の篤志家達は、決して金持ちではなかったけれど日本にも複数居たということが私の現在に繋がっている。

ワーキング・プアーについての論考は明日にでも続編を・・・Oliver

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